日々妄想を逍遥

ダイアリーから移築。中身は変わらずに色々と、あることないこと書き込んでます。

電車の中

新学期、浮ついた子供を尻目に、改札を足早に通貨する。
自分にもあんな時代があったのかもしれない、なんて洒落にならない戯言。一緒に学校に行こうと約束を交わす子供の姿は、まぁ微笑ましいと言えなくもない。塞がれた通路。邪魔な鞄を足先で蹴り飛ばしたら、睨みつけてくる幼い姿。まだ制服が着慣れていない様子は、少し滑稽で笑ってしまう。
ホームに滑り込んできた電車の中は、溢れんばかりの学生服。しばらくは耐えるしかない。そのうち、この電車よりも一本遅いものに乗り換えていくだろう。騒がしい車内、充満するのは安いフレグランスや整髪料、果ては女子高生が取り出した化粧の臭い。はっきり言えば、臭いの一言に尽きる。
必要以上に暖房が効いた車内での臭いは、拷問に近い。耳に突っ込んだイヤフォンで雑音はシャット出来るが、流石に鼻を塞ぐのはどうかって話。仕方ない、ドアのすぐ傍に寄りかかってから、鞄から取り出した携帯。仕事に向かう前に今日の行き先と相手をもう一度確認する。ついでに、いくつか目ぼしいニュースサイトを周回して、それからパソコンと連動させたメールファイルの確認。掌に収まる小さな機械一つで世界と繋がる感覚は、面白いが恐ろしい。
情報ばかりが増えていき、扱う人間は何処までもアナログになっていく。そのうちに、増殖した情報が世界を食いつぶすかもしれない。
うん、これはちょっと何かに使えそうな思考。新規メール作成画面を開いて、今の考えを打ち込む。これ、ちょっと話を膨らませてみよう。
本日打ち合わせ相手からメール。どうやら時間の変更をお願いしたいらしい。それなら、もっと早く言って欲しかった。そしたら、こんなに五月蠅い電車に乗り込む必要などなかったのに。
本音と建前、了承の旨を短いメールで伝えてから、まだまだ遠い到着駅を呪う。
目の前でふざける高校生に、意味も無い苛立ち。幼いことは、悪い事ではない。だが、この幼さを窘める大人が居ないのも事実だ。誰だって、面倒なことには関わりたくない。



「ドアが開きます。ご注意ください。」


無機質なアナウンス。ドアが開くのを待ってから、身体を避ける。手すりに縋ってゆっくり乗り込んでくるお祖母ちゃん。
おそろしい程の緩慢な動作には、数十年分の重みが積み重なっているのだろう。歳月の重さがそのまま身体に現れたような、そんな一挙一動を見つめる。
ふと傾いだ身体に、自然と手が伸びる。目の前で転んで怪我でもされたら面倒だ。自分に言い訳をしながら、荷物を受け取って伸ばした手で誘導する。
満員の車内、座る場所など存在しない。優先席では眠っているのか寝たふりをしているのか、自分と同じ有り触れたスーツに身を包んだ大人。



「ありがとね、もう大丈夫ですよ。」
「いえ・・・荷物、持たせていただいてかまいませんか?それと、ここなら立つのも少しは楽ですから。」



快速電車は、もう終点まで停まることはない。それなら、壁際にいれば多少は楽だろう。車内を掻き分けて行くには少々辛いものがある。



「貴方、お顔は怖いけれど、親切な方ね。」
「怖いって・・・はぁ。」




ころころと笑うお祖母ちゃんには、勝てそうにない。何だか、こちらの言い分を全て受け止めて返してしまう様な、そんな強さ。所詮積み重ねた歳月が違うのだ。込み合う車内と増えるカーブ。まるで痴漢から彼女を守るような体制。そんな自分を一瞬だけ客観視して冷静になって、笑ってしまう。



「あら、そのお顔は素敵ね。貴方は、とても綺麗ですよ。」



再び笑うお祖母ちゃん。昔絵本で見た、鍵っ子を助けてくれるおばあさんみたいだ、なんて思った。
鍵を失くした子供を助けて、ご飯を作ってくれる。話の内容はほとんど覚えていないけれど、そのあばあさんが作ったハンバーグの挿絵は覚えている。



「終点、到着です。お忘れ物、落し物のないように・・・。」



車内アナウンス、我先にと走って降りる乗客を眺めながら、一通り混雑が終わるのを待って、お祖母ちゃんとホームに降りる。



「ごめんなさいね、貴方もお仕事なのでしょう?」
「いえ、時間がずれてしまって。気にしないでください。」



階段を上がって地上に出る。相変わらず大勢の人間が、我先に歩き走り形振り構わずに、どこかを見つめて動いている。
脇目も振らずに動く人間の群れは、働き蟻なんて例えがピッタリだと思った。



「どちらへ、行かれるんですか?」
「ちょっと、あの世に行こうと思ってたんですよ。」



そうですか、そんな相槌は舌先で凍ってしまった。思わず見つめた顔は、穏やかな笑顔。あの世ってのは、あの世だよなぁ。もしかして、このお祖母ちゃん死ぬつもりだったのか。いや、こんな都会の真ん中に自殺スポットなんてあるのだろうか。



「でも、少し延期しましょうかね。貴方の様な素敵な方がいる世界なら、少しは楽しみが見出せるでしょうし。」



そう言ってお祖母ちゃんが告げた病院は、有名な癌治療の医師がいる病院だった。タクシー乗り場で別れ際、お祖母ちゃんは、笑ってありがとね。と言ってくれた。それから、そっと左手に触れて、貴方は素敵な方ですよ。と言われた。
走る去るタクシーを眺めて、それから自分の左手を見つめる。
スーツの中に隠した、無数の傷跡。そして、未だ新しく鮮血を滲ませる手首の切り傷。短い時間で見抜かれた思いに、驚くよりも放心してしまった。
携帯の新規メール作成ページ、開いて打ち込むのは病院の名前。
さて、まだ残っている時間が煙草でも吸いながら本でも読もう。
吐き出された改札を背中に、手近なカフェを探すために足を踏み出した。